ある先生が、勤務時間中に自分の趣味の落語の話をネット上に公開している、教師として如何なものかと匿名の抗議があった。    調査をすると、事実であった。  ただし、文章を書いたのは勤務時間中ではなく、いち早く公開したくて、休憩時間にネット上にアップしただけであると答えた。  当然、学校としては遺憾であるとしなくてはいけないが、恐ろしさも感じた。   それは、保護者であろうその人が教師のネット上の動きを監視しているという恐ろしさである。  私学の教師であった私は、生徒募集活動のため、夏休みを使って、公立学校を回ることがあった。夏休みでも公立学校は、生徒がいなくても「営業」している。  公立学校の先生曰く、校門近くで見張られているんですよ。ちゃんと勤務しているか、早くに帰宅していないか、学校で遊んでいないかと。  本当かどうかはわからないが、真面目な顔をしていう先生の表情からは呆れたといういた。  ……これらは、ちょっと、昔の話である。  つい最近も、国会議員やどこかの校長が不適切な発言をしたと各方面から糾弾されていた。  戦争をしろとか、いじめを助長するというのでは困った話だが、よく意見を聞いてみれば、さほど悪いことを言っているようには見えない。  議員の奴隷発言でも、校長の女性の仕事発言でも、それは彼らが意図して誹謗中傷をしようというものではないし、まさに受け手の曲解、あるいは意図的な誹謗そのものであると私は感じるのである。  人と人との会話は、心を忖度して進められる。  そこに含まれる思いを推し量って、相手の言うことを理解していこうとする過程があって初めてお互いの言葉の交流が成立すると私は思っている。  今、日本の一部に、意見を意見として認めず、言葉の一つをとって、その人を窮地に陥れようとする風潮があるようだ。  そして、そういう風潮の中で、謝り方を教示し、危機管理と称して、何かことが起きた時にそれをすり抜ける技術を売り物にする会社まである。  これはおかしなことである。  人と人とが交流していく時に起こる様々な軋轢を、なぜ自分たちの言葉のあり方で解消しようとしないのかと思う。  日本が日本として、美しく、正しくあるためには、相手を前向きに、良い方に見ていくことが必要である。そうでないと、揚げ足取りの、攻撃ばかりのつまらぬ国民の集まりになってしまう。  人というのはさほど悪いものではない。